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カール大帝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 カール大帝Karl der Gro?e フランク王・西ローマ皇帝 カール大帝の金の胸像(アーヘン大聖堂宝物館) 在位 768年 - 814年
西ローマ皇帝:800年 - 814年 戴冠 800年12月25日 出生 742年4月2日
アーヘン 死去 814年1月28日(満71歳没)
アーヘン 配偶者 ヒミルトルーデ デジデリア ヒルデガルド ファストラダ ルイトガルド ゲルスヴィンデ 子女 ルートヴィヒ1世 他多数 王朝 カロリング朝 父親 ピピン3世
カール大帝(カールたいてい)あるいはシャルルマーニュ(742年4月2日 - 814年1月28日、アーヘン)は、フランク王国の国王(在位:768年 - 814年)。カロリング朝を開いたピピン3世(小ピピン、714年 - 768年9月28日)の子で、カール1世ともいう。768年に弟のカールマンとの共同統治(分国統治)として彼の治世は始まったが、カールマンが771年に早逝したため、以後43年間、単独の国王として長く君臨した。
目次
1 概略 2 事績 2.1 カールの外征と内治 2.2 カロリング・ルネサンス 3 カールの戴冠 4 人物 5 カールの最期 6 ピレンヌ・テーゼ 7 脚注 8 参考文献 9 関連項目カール大帝は、ラテン語ではカロルス・マグヌス(Carolus Magnus)、ドイツ語ではカール・デア・グローセ(Karl der Gro?e)、フランス語ではシャルルマーニュ(Charlemagne)、英語ではフランス語綴りを英語読みでシャーレメイン、または英訳してチャールズ・ザ・グレート(Charles the Great)、イタリア語ではカルロ・マーニョ(Carlo Magno)、スペイン語ではカルロマグノ(Carlomagno) 、トルコ語ではフランス語綴りを音訳してシャルルマン(?arlman)という呼び方をする。
彼は後にフランク王国から分かれた神聖ローマ帝国およびフランス王国の歴史において重要視され、ドイツ史とフランス史の中で共に偉大な国王とみなされ、また、古典ローマ、キリスト教、ゲルマン文化の融合を体現した人物として評価される。
16世紀発行の『ローランの歌』におけるカールの肖像カールの生涯の大半は征服行で占められていた。46年間の治世のあいだに53回もの軍事遠征をおこなっている。
小ピピンの死後、イタリアのランゴバルド王国の王デシデリウスは王女をカールの妃としてフランク王国からの脅威をとりのぞき、ローマ教会への影響力を強めて勢力挽回を図ろうとした。なお、ランゴバルドは、イタリア語では「ロンバルド」と呼び、ロンバルディア州、ロンバルディア平原の語源となった。770年、カールは王女と結婚したが、デシデリウスがローマへの攻撃を開始し、773年、ローマ教皇ハドリアヌス1世(在位:772年−795年)がカールに援軍を要請するに至って、カールは義父にあたるランゴバルド王と対決することに方針を定め、妃を追い返してアルプス山脈を越えイタリアに攻め込んだ。翌774年にはランゴバルドの首都パヴィアを占領し、デシデリウス王を捕虜として「鉄の王冠」を奪い、ポー川流域一帯の旧領を握ると、みずからランゴバルド王となってローマ教皇領の保護者となった。さらに父王ピピンの例にならって中部イタリアの地を教皇に寄進した。
カール大帝とローマ教皇ハドリアヌス1世772年には、ドイツ北部にいたゲルマン人の一派ザクセン族を服属させようとし、ウィドゥキントを降伏させたほか、10回以上の遠征をおこなったザクセン戦争をすすめ 804年には完全にこれを服属させ、今日あるドイツの大半を征服することで領土を拡大した。カールは、抵抗する指導者を死刑や追放に処し、フランク人を移住させるなどの方法で反抗をおさえた。
778年、カールはスペインのカタルーニャに遠征した。この時のカールの遠征を題材にしたのが『ローランの歌』である。ローランはカールの甥で最も危険な後衛部隊をひきいていたが、味方の裏切りにあいイスラム軍に包囲されてしまう。孤立無援のローランは助けを求めず、カールより賜った剣デュランダルで最後のひとりになっても戦った。このなかでカールは200歳を越す老騎士として登場する。
カール時代のフランク王国(青がカール即位時のフランク王国、赤橙がカールの獲得領、黄橙がカールの勢力範囲、濃赤はローマ教皇領)結果としてカールの王国は現在のフランス、ベルギー、オランダ、ルクセンブルク、スイス、オーストリア、スロヴェニア、モナコ、サンマリノ、バチカン市国の全土と、ドイツ、スペイン、イタリア、チェコ、スロヴァキア、ハンガリー、クロアチアの各一部に広がった。このことにより、イギリス、アイルランド、イベリア半島、イタリア南端部をのぞく西ヨーロッパ世界の政治的統一を達成し、イングランド、デンマーク、スカンジナビア半島をのぞく全ゲルマン民族を支配してフランク王国は最盛期を迎えた。カールは、ゲルマン民族の大移動以来、混乱した西ヨーロッパ世界に安定をもたらしたのである。
カールは征服した各地に教会や修道院を建て、その付属の学校では古代ローマの学問やラテン語が研究された。また、フランク王国内の教会ではローマ式の典礼を採用し、重要な官職には聖職者をつけ、十分の一税の納入を徹底化させている。さらに、住民を、キリスト教のアタナシウス派(カトリック教会)に改宗させてフランク化もおこなった。カールはまた、広い領土を支配するために全国を州に分け、それぞれの州に「伯」(Comes、Graf)という長官を配置し、地元有力者を任命して軍事指揮権と行政権・司法権を与えるとともにその世襲を禁じた[2]。荘園経営の指針として荘園令を出したといわれる。さらに、伯の地方行政を監査するため、定期的に巡察使(ミッシ・ドミニ)を派遣するなど、フランク王国の中央集権化を試みている。
カール大帝像(ベルギー、リエージュ)しかし、征服化されたとはいえ、ザクセン、バイエルンなどゲルマン諸部族には慣習的な部族法があり、カールのしばしば発した勅令にもかかわらず、王国の分権的傾向、社会の封建化の進行を完全に抑えることができなかった。カールの宮廷そのものが、1箇所に留まらずに常に国内を移動していた[3]。それは、絶えず領内を移動して、伯との接触を確保する必要があったからであり、また、道路の整備も不充分で、各地から食糧などの生活物資を宮廷まで運ぶ輸送手段がなかったためでもあった。
父ピピン3世(小ピピン)とともに遠征した南西フランスのアクイタニアでは、土着貴族の勢力が強かったため、息子ルートヴィヒをその地の伝統にしたがって育て、まずはアクイタニアの王としたことにもカールが集権化に苦慮したことがあらわれている。
カールはこのほか道路を改修して交易を保護したり、銀を通貨とする貨幣制度を定めるなどの施策をおこなっている。
なお、カールは「ヨーロッパの父」と呼ばれ、現代におけるEU統合はしばしば「カールの帝国の再現」と称されることがある[4]。
アーヘン大聖堂それは、王国の維持に必要とされる聖職者や官吏を養成するという色合いの濃いものであり、一部のエリート層のみを中心とする閉鎖的な性格を持っており、修道院文化としての限界をもつものであったため、通念としての「ルネサンス」の名を冠すことについては適切ではないとの異論もある。ただし、中世西ヨーロッパにおける最初の大規模な文化運動、また古典古代の学芸を存続しようとする動きの一環として無視できない重要な意義を有している。
正確には、カールが強力な軍事力で東はエルベ川から西はピレネー山脈を越えてエブロ川、北は北海沿岸から南は中部イタリアに広がる広大な土地を支配するに至った目的は、教父哲学におけるキリスト教の伝承と合致したかたちでフランク人の社会を変革してゆくことであった。教会の学問を世俗政府の中枢において営み、伝道を実現しようとしていたのである。中世において学芸は政治と深く関わっており、政治と宗教は切り離せないものであった。
1978年に世界遺産に登録されたアーヘン大聖堂(ドイツ、ノルトライン=ヴェストファーレン州)はしばしば「皇帝の大聖堂」(ドイツ語:Kaiserdom)と呼称される。786年にカールがアーヘンに宮殿教会の建設を始めたもので、現在の大聖堂は805年完成の八角形の宮廷礼拝堂に1414年のゴシック様式の聖堂を併設したものである。
なお、ブドウ栽培をガリアの地に広めたのもカールだといわれている[6]。
カールは、800年11月、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂でのクリスマス・ミサに列席するため、長男カール、高位の聖職者、伯、兵士たちからなる大随行団をしたがえ、イタリアへ向かって5度目のアルプス越えをおこなった。ローマから約15kmのところでカールはローマ教皇よりじきじきの出迎えをうけた。そして、サンピエトロ大聖堂まで旗のひるがえる行列の真ん中で馬上にあって群衆の歓呼を浴びつつ進むと、教皇はカールを大聖堂のなかへ導いた[7]。
800年12月25日の午前中のミサで、ペトロの墓にぬかずき、身を起こしたカールに、教皇レオ3世(在位:795年−816年)は「ローマ皇帝」(神により加冠されし至尊なるアウグストゥス、偉大にして平和的なる、ローマ帝国を統治するインペラートル;serenissimus Augustus a Deo coronatus, magnus pacificus Imperator Romanorum gubernans Imperium)として帝冠を授けた[8]。このとき、周囲の者はみな、「けだかきカール、神によって加冠され、偉大で平和的なるローマ人の皇帝万歳」[9]と叫んだという。なお、レオ3世は前年(799年)、対立する勢力に命を襲われ、カールのもとに逃げ込んだことがあった。カールの戴冠は、教皇をたすけたことへの報酬でもあり、教皇権の優位の確認でもあり、東ローマ帝国への対抗措置でもあったのである。
ただし、この「戴冠」については教皇レオ3世とカールとの間には認識の差があり、アインハルトは「もし、前もって戴冠があることを知っていたら、サンピエトロ大聖堂のミサには出席しなかっただろう」というカール自身の言葉を伝えている。コンスタンティノポリスの東ローマ帝国は、皇帝の称号を名乗るためには東ローマ皇帝の承認が必要であることを強硬に主張していたし、それは西欧世界においても伝統的な認識であった(そもそも、ローマ教皇が皇帝を任命するという慣習はそれまでにはまったくなかった)。その意味で、カールの戴冠は東ローマ側から見ると皇帝称号の僭称にすぎないと見なされた。そこでカールは自らの皇帝称号を東ローマ側に承認させるための皇帝補任運動を繰り広げた。カールは、彼自身が東ローマの女帝エイレーネーと結婚することによって皇帝の称号を正式のものとするといった奇策も考えたが、これは実現することはなかった。東ローマ帝国では当初カールの皇帝権を容易に承認しようとはしなかったが、女帝エイレーネーの死後の812年にようやく両者の間で妥協が成立[10]し、東ローマはカールの帝位を認めた。その代わりカールは南イタリアの一部と商業のさかんなヴェネツィアを東ローマ領として譲り渡すことを承認した。ただ、東ローマ側としてはローマ皇帝(ローマ人の皇帝)はコンスタンティノポリスの東ローマ皇帝のみで、カールには単なる「皇帝」としての地位しか認めていない[11]。つまり、同じ皇帝でも、東ローマ皇帝が格上、カールは格下という建前を崩すことはなかったのである。
ただ、そうだったとしても、西欧的立場から見るならば、これまでは地中海世界で唯一の皇帝であった東ローマ皇帝に対し、西ヨーロッパのゲルマン社会からも皇帝が誕生したことは大きな意味を持っていた。ここでローマ教会と西欧は東ローマ皇帝の宗主権下からの政治的、精神的独立を果たしたと評価されている。このことは、西欧の政治統合とともに、ローマ、ゲルマン、キリスト教の三要素からなる一つの文化圏の成立[12]を象徴することでもあったとされている。
カールのサイン デューラー「カール大帝」(1511-1513)カールに招聘された学者で伝記作者でもあったアインハルトによれば、小太りの長身(約195cm)でふさふさとした銀髪をもち、声は少し甲高かかったという。馬術、狩猟、水泳などに長じており、特に水泳はアーヘンの宮廷に大きな温泉プールを設けるほど愛好したが、誰もカールの右に出るものはいなかったほどであった。プールでは一族や従臣とともに泳いだが、その数は100人に達することもあったという。焼肉が大好物であったが、酔っぱらいが嫌いで酒はあまり飲まなかったという。
また、文字の読み書きはできなかったという。カールはしばしば"KAROLUS"の7文字を組み合わせて署名したが、自身では中央の菱形だけしか書いていないといわれる。ただし、夜な夜な石板に手習いをしたエピソードは有名で、ラテン語は自由に話せるほどに熟達し、ギリシア語も聞いてわかる程度にはなった。食事中は好んで歴史書を読ませたが神学者アウグスティヌスの著作も好み、『神の国』は何度も読ませたという。
服装は簡素で、麻の下着と絹のふちどりをしたチョッキとズボンでできたスーツがお気に入りで、スーツの上に革製のゲートルをつけ、靴をはくというスタイルを好んだ。儀式のとき以外はローマ風の正装は好まなかったといわれる。
カールのことばに
「平和なくして、神を喜ばせることはできない」 「余の務めは、聖なるキリストの教会を作ること」がある。
家庭生活では、5回結婚し、そのうえ4人の第二夫人がいた。生まれた子は約20人。カールの男子で死後まで生きたのはルートヴィヒだけだったが、女子の方はおおかた無事に成長した。カールは容易に娘たちの結婚を承諾しなかったため、娘たちは勝手に結婚したりしてスキャンダルを引き起こしたりしている。
カールと息子ルートヴィヒは動物飼育に熱中したという記録がのこっている。797年にはアッバース朝のハールーン・アッ=ラシードからゾウ1頭と何匹かのサルを贈与され、9世紀初頭にはアフリカのイスラム政権アグラブ朝から、ライオンとクマを贈られている。宮廷付属庭園には、これら珍獣とともにヨーロッパ産のシカ、ノロジカ、ダマジカなどの哺乳動物や、クジャク、キジ、キジバト、ヤマウズラ、カモなどの鳥類が集められていた。
カールはまた、フランスのトランプでは、ハートのキングのモデルとされている。
アーヘンの宮廷礼拝堂カールは、フランク族の伝統にしたがって、3人の子を後継の共同統治者に任命したが、そのうち2人はカールの死に先だって死亡してしまった。そのため、813年、ただ1人のこった息子ルートヴィヒ1世(ルイ敬虔王)を次の皇帝に任命し、翌814年に死去した。
カールの遺体はアーヘン大聖堂に埋葬され、遺骨はいまも特別の神殿に保存されている。
^ 中国の柔然との同族説もあるが、確証はない。 ^ カールの死後は世襲化が進み、かえって地方の分権化をうながした。 ^ EU統合の初期段階においてデンマークでは国民投票(1992年)がなされたが、このなかでマーストリヒト条約の批准は否決されている。イギリスやスウェーデンでも、ユーロを通貨とすることについては今でも拒否感が強い。経済的な理由が最大の要因であることは言うまでもないが、これらの国々は歴史的にみても「カールの帝国」には含まれていなかったのである。 ^ しかし、これは単純な古典回帰ではなかった。ラテン語の教育にしても、地方ごとに異なる言語が用いられ、遠距離間の情報伝達に不自由する時代であったため、ローマ以来の共通語であったラテン語を理解する聖職者の存在が不可欠とみなされていたためでもあった。 ^ 宮殿周辺付近にブドウを植えたという伝承があり、ワインに「コルトン・シャルルマーニュ」(白ワインのみ)という銘柄がある。 ^ 印象的なこのローマ入城は、あたかもローマ時代の儀礼「皇帝到来」の再現のようであったという。 ^ 通常、これをもって「カールの西ローマ帝国皇帝即位」(在位:800年−814年)としている。強い政治力や軍事力をもたなかった当時のローマ教皇は、カールを西ローマ皇帝とすることで、はじめて東ローマ皇帝や、その支配下にあるコンスタンティノープル教会に対抗することが可能になったのである。ただし、半面、カールが整備された道路、統一された官僚群、常備された軍隊を欠いた状態で、広大な領土の統治するため、ローマ皇帝の権威とカトリックの教会組織を必要としていたことも事実である。 ^ 古代ローマ皇帝の理念は「キリスト教皇帝」に変質していたので、敬虔なローマ・カトリック教徒の最高の王者であれば、ゲルマン人であっても、カールが皇帝になることは差し支えなかったことをあらわしている。 ^ 東ローマ帝国との関係が悪化したとき、カールは、ハールーン・アッ=ラシード(アッバース朝全盛期のカリフ)とも提携して対抗しようとしている。なお、「シャルルマーニュの護符」はハールーン・アッ=ラシードより贈られたものと言われる。 ^ これは後の第一次ブルガリア帝国の皇帝シメオン1世などに対しても同様である。 ^ それはまた、世俗権力と教権とが並立する独自の世界の成立でもあった。 堀米庸三『世界の歴史3 中世ヨーロッパ』中央公論新社<中公文庫>、1974.12 阿部謹也『物語 ドイツの歴史』中央公論新社<中公新書>、1998.5、ISBN 4-12-101420-0 カロリング朝 フランク王国 カロリング朝ルネサンス ザクセン戦争 (カール大帝) レオ3世 (ローマ教皇) シャルルマーニュの護符 ローランの歌 アーヘン大聖堂 サリカ法典 カール大帝賞 先代: 小ピピン フランク国王 768年 - 814年 次代: ルートヴィヒ1世 先代: ロムルス・アウグストゥルス 西ローマ皇帝 800年 - 814年 次代: ルートヴィヒ1世 NewPP limit report Preprocessor node count: 1455/1000000 Post-expand include size: 17668/2048000 bytes Template argument size: 3374/2048000 bytes Expensive parser function count: 0/500 --> カテゴリ: フランク王国の君主 | フランク人のローマ皇帝 | カロリング家 | ローランの歌 | 742年生 | 814年没 表示 本文 ノート 個人用ツール ナビゲーション メインページ コミュニティ・ポータル 最近の出来事 最近更新したページ おまかせ表示 ウィキペディアに関するお問い合わせ ヘルプ ヘルプ 井戸端 お知らせ バグの報告 検索 ツールボックス リンク元 リンク先の更新状況 特別ページ 他の言語 最終更新 2008年12月8日 (月) 23:03 (日時はオプションで未設定ならばUTC)。ウィキペディアについて 免責事項
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